

1.01 女性脳と男性脳
人間を生殖器の違いに基づき女性と男性の2種類に分けるのは非常に問題があります。昨今のLGBT問題が示すように、心がどちらになっているかが、本質的な答えです。ここで述べるレポートの中で示される女性・男性は必ずしも生物学的生殖器の有無には関係ありません。当然生殖器がもたらすホルモンの影響で、卵巣を有するホモサピエンスが女性脳を、精巣を有するホモサピエンスが男性脳を有する割合が多くなります。このホルモンによる影響を一番受けるのが、胎児が母親の胎内にいる時で、男性脳を有する胎児は猛烈な男性ホルモンに長期間さらされるのです。男性脳を有するよう運命づけられた胎児は、妊娠約6〜7週目になると、男性の胎児の性腺(後に精巣になる部分)から男性ホルモンを分泌し始め、成長する10か月の中の6か月以上をすさまじい男性ホルモンにさらされるのです。それが胎児の脳の発達に影響を与えないはずがないと考えるのは容易に推定できることです。しかしながら、相当な数の海外の研究者から、その影響について報告されているのにも関わらず、はっきりといえるのは、いまだフロイトの説くらいが現状です。ただここでは長期間生物学的に異常な作用を受けて生まれた新生児に男女平等な人間が生まれるはずがないと言える、と述べることにします。当然女性脳・男性脳の所有者は生まれながらに全く違う性格を持って生まれる事をこれは示唆しています。
したがって生殖器の違いや有無に関わらず、女性脳を持っている人間を“女性”、男性脳を持っている人間を“男性”として話を進めることにします。
生物学的には女性だけで子孫を残せる生物が多々おりますが、それらも環境に変化があると男性を作り始めるのが一般的です。中には受精した卵が孵化する時の環境温度で男性・女性が変わる生物も多々存在します。女性がいなくなると、男性が女性に変化し、子孫を作り始める生物も存在します。では何故男性が生まれるかというと、多様な子孫を発生させ、その中の誰かがグループ内で細菌感染や環境変化に対して生き残るチャンスを未来に与え、自らは戦い、食糧などの戦利品をグループ内に持ってくる、いわば使い捨ての、短期間生物がグループとして必要だからです。
したがって、男性脳を有する人間は、特定のタスク(狩りや戦闘能力)において優れている一方、女性脳を有する人間は複数のタスクを同時に処理する能力(グループ維持能力)に優れているというのが一般的な認識となります。しかしながら、乳幼児は生まれるとすぐに、母親から乳を受け始め、その時点から第3脳の成長が始まります。この母親が持つ宗教観や生活は、生きるだけに必要な生物脳である第2脳をカバーするように、第3脳を発達させ男性脳でも心を作るのです。教育が発達した社会ほど、男性脳の女性脳化が進むのは当然でしょう。しかしながら、何の教育や保護を受けられない子どもたちが、そのまま育つと、日本でいう 「女の子は木の下でオママゴトをし、男の子はチャンバラをする」 ようになってしまいます。それは世界中同じで、逆に日本は男性脳が女性脳化している、数少ない教育発達国の一つなのです。
ここで声を大にして言いたいのは、「近年の日本、草食男子の増加、男性の女性化が問題視されています。しかし、多少出生率が下がるかも知れませんが、戦いや虐殺をスポーツとして楽しむ男性脳(第2脳)が、女性脳化するのは大変好ましい事だ」 ということです。
逆に近年、多様性とか男・女平等が重要視されてきたのが影響し、研究論文ですら、男性脳と女性脳の差は無いというようなものが発表されるようになってきました。しかし、現実を直視すると、明らかに男女の思考に違いがあります。その様な男女の思考に違いがないという論文は、「楽しくないのに、楽しいと演技したり、まずいのに旨い!という顔をしたりする」 テレビコマーシャルを見ているようで、痛々しさえ感じてしまうのが現状です。



1.02 男性脳が強く影響するゲーム囲碁・将棋・そして戦争


ほとんどのゲームは先手必勝です。獲得した目数を競うゲームの囲碁の場合も、先手黒番が後手白番にほとんど勝つのです。そこで先手には初めにハンディを数目、後手にあげることが行われます。これを“込だし”と言います。碁会所などで囲碁を打つ場合など“込み”を多く上げた方が先手をもらえる勝負がよくあるのですが、私は10目位出しても先手番を取ることにしています。先手番であるので攻撃から始められ、終始気持ちがよく、必ずと言っていいほど負けるのですが“やった”“負けちゃった”、でも“爽快”という気分になれるのです。囲碁は勝ち負けのゲームではなく目数を競うゲームだからでしょうか。その点将棋は先手に囲碁のような“込だし”のようなハンディはありません。当然先手は最初に仕掛けられる権利のようなものがあるには、あるのですが、先手が勝つ割合が高いという訳ではありません。誠に不思議なゲームです。この囲碁・将棋にはプロ棋士が存在します。アマチュア界には、こんなに女性が囲碁・将棋をやっているのかと思うほど、沢山の女性が囲碁・将棋を楽しんでいるにも関わらず(ただし、ほとんどの女性が“観るだけ”)、このプロ棋士には驚くほど女性が少ないのです。プロ囲碁界では1~2割程度が女性ですが、プロ将棋界では全くいないのが現状です。今一歩で、なんとか女性プロ棋士誕生とチャンスはあったのですが、ほとんどの将棋ファンが待ち望んでいるにも関わらず、今年もダメだったかが現状です。
女性の将棋プロ棋士が少ない理由として、歴史的、文化的、社会的な要因を述べる記事や、ロールモデルの欠如、すなわち女性棋士が少ないため、若い女性が将棋の世界に入る際のロールモデルが少なく、挑戦する動機が不足しているなどの指摘が時々話題にのぼりますが、どれもポイントがずれているようにしか感じられません。要は普通の女性にとって囲碁や、将棋は面白いゲームではない、からであると思います。女性は男性に中々勝てない、負け方も囲碁はまだしも、将棋はエゲツナく負け(サドンデスゲーム、違う言い方では逆転のゲーム)“負けました”と言った方が負け、というプライドに傷がつくゲームなのです。負けてばかりのゲームで、負けましたと毎回言ってるのでは、一般的に、ちっとも楽しくないのは当然で、女性は自分は指さず、観るだけになって行くのがほとんどとなります。(イケメン棋士には憧れるようですが)。
観る将(みるしょう)という言葉があります。将棋の対局を観戦することをメインに楽しむ将棋ファンのことを指すらしいのです。自分で将棋を指すことはほとんどなく、テレビやインターネットなどで対局中継を楽しむのが特徴です。しかし私は囲碁も観る将です。
この観る将として囲碁・将棋が一番面白いのはやはり終盤戦です。この終盤戦、あいての何処に弱点があるかを囲碁の場合は隅々まで盤面を広く見る必要があります。将棋の場合は盤面だけでなく、同一個所を何度も違う駒を打ち合い、あいてからとった駒をまた打つとうい盤面の下にある状況を読まなくてはなりません。将棋の目数は囲碁より少ないのですが、深さが加わると、まさに将棋は見えない立体空間になるのです。あいての弱点を一瞬で探し出すのは、やはり狩りを得意としてきた男性脳の持ち主に軍配が上がるのは、至極当然と思います。ただ囲碁の場合は、平面が広くても論理性ですぐれた女性脳の持ち主であれば、男性脳と互角に勝負できると思いますが(囲碁プロ棋士はかなりいる)、見えない空間を想像認識する力を必要とする将棋では、やはり女性脳が男性脳と互角に勝負はできないと思わざるを得ません。
逆に、何故男性脳を持った人間の方が囲碁・将棋に興味を持つのか?近年AIと対戦する囲碁・将棋プロ棋士が多くなり、その実態が見えてきました。AIはディープラーニング(*)により過去の棋譜を解析することで、どの手が一番勝利する確率が高いか計算し、値が最も高い手を指します。したがってAIは、序盤では“俺を馬鹿にしているのか!”と対戦相手を憤慨させるような手もよくあります。それが終盤になるとたくさんの手があり、人間の棋士は迷ってしまい、ほとんどの棋士はAIに勝てなくなっているのが現状です。AIは相手の弱点を探しているわけではなく、ただ計算しているだけですが、計算速度はAIの方が断然早いのです。ただ面白いことに、近年プロ棋士を目指すセミプロ棋士がAIに勝利するケースがたびたび出現するようになりました。もちろん公式にはAIとの勝負は禁止されているので“棋譜”はないのですが、どうすればAIに勝てるかという、誰もが知りたい情報は流れてくるものです。それらは特徴があって、すべて“やけくそ”の手で勝っているのです。流石、囲碁の場合は美しき棋士道の絶対律があるので手の詳細は一切在りませんが、将棋の場合は“まあ、あるかな”というような手で、よく検討すると“やけくそ”で、美しい手はないのです。“ひっかけ”や“ハッタリ”に対して、AIは極めて強い(何十万局の中には必ずある)ので、AIはまず引っ掛かりません。しかし“やけくそ”はAIとして解析するのが難しいようなのです(過去のデータとの結びつきがない。どの手を打った方がよいのか計算できないと思われます)。“やけくそ”も“やけくそ”と分かるものではなく“勝負手”のような、かたちでなければなりません。囲碁とは異なり、将棋ではセミプロリーグの勝負は“やけくそ”の塊です。その“ヤクザ”的なところが女性を遠ざけている原因の一つかも知れません。囲碁の場合は“やけくそ”でAIに勝った例が一つだけあるのですが(公式記録に載ってしまっている)、誰もその後の追究するものはいないほど、“ヤケクソ”な内容です。まさに囲碁棋士道かも。ある東大の数学教授が“ディープラーニング”はしょせん“最小二乗法(RMS)”であると発言しました。数学が得意の私でも、一瞬頭が白くなりました。これこそが“やけくそ”の本質です。いつかAIに真っ向勝負できる棋士が現れんことを願ってやみません。
上記で述べたごとく、相手の弱点を見つけ出し、それに勝つことは男性脳を非常に興奮させ喜びをもたらします。それが囲碁・将棋に男性脳の持ち主が、はまる原因であると思います。それに近いものが戦争です。歴史学は戦争史そのものです。アレキサンダー大王は“何故東方アジア遠征をしたのか?”、歴史学では“戦う相手を探していたから”と教えています。戦争は男性脳を喜ばせる“男のスポーツ”だったからです。国家というものが形成されてきて、戦争が国家目的の一つになるのは10世紀頃にならないと出て来ません。もちろん10世紀前でも戦争をスポーツの一種でなく、恨みをはらすための目的で行われたことは度々あるのは事実です。つまり戦争の“勝った感”と“負けた感”が男性脳だと、かなり双方がかなり異なるのです。兵士(男性脳)が敵に勝ったということは、敵を殺し、その妻・娘を凌辱し、その後それらを殺害して初めて“敵に勝った”心理状態になるのに対して、妻・娘を殺害された方は“負けたとあっさり認めることができず、恨みをもつ”心理状態になるのです。恨みがより強い方が戦争では強いため、特別な理由がない限り司令官も制限はしません。10世紀以降戦争が国家目的になり、勝つことが目的そのものになってきたのです。戦争の中に恨みが持ち込まれるようになったのです。13世紀のチンギス・ハーンでさえ、打ち負かした国の王女・王妃を陵辱するのが最高の喜びとし、敵となった国の恨みを知っているため、国民は一人として、家畜・動物を含め生存を許さなかったのです。但し、降伏した国に対しては真逆の対応をしました。この徹底ぶりが、当時のヨーロッパ諸国を震撼させたのです。男の一人として、その説明には納得するところがあります。徹底した虐殺も正しかったのでは、とさえ思えてきます。戦争はチンギス・ハーンにとって“真のスポーツ”だったのです。ただ今の世界は“戦争はスポーツだった”の過去の事象になっております。チンギス・ハーンの子供たちは、父親とは異なり領国経営に乗り出しました。それが時代の流れであったのでしょう。
現在、戦争は男のスポーツと公言するものはいなくなりましたが、相手が弱いとみるや領土的野心を燃え上がらす大国の指導者(女性はいない)が多くなりました。大国なのに、これ以上領土を増やしてどうするの?と疑問が沸きますが、現実に侵略している大国があるのは事実です。したがって男性脳がある限り戦争をなくすことは不可能です(フロイト)。
戦争を男の喜びにされては、小国はたまりません。ノルウェーは女性を先頭に立て外交攻勢で世界をリードしつつ、NATOとの軍事同盟かつ“女性の兵役”をも義務付け国民皆兵を貫いて大国からの侵略に備えています。
(*)ディープラーニング(深層学習)とは、
人工知能(AI)の一分野であり、大規模なニューラルネットワークを使ってデータから特徴やパターンを学習する技術です。ニューラルネットワークは、人間の脳の構造を模倣したもので、多層のノード(ニューロン)から構成されています。
- ディープラーニングの主な要素
(1a) ニューラルネットワーク; ディープラーニングの基盤は、多層のニューラルネットワークです。各層は、入力データを処理し、次の層に渡す役割を持っています。
(1b)特徴抽出; ディープラーニングは、大量のデータから重要な特徴を自動的に抽出する能力があります。これにより、手動での特徴エンジニアリングの必要性が減少します。
(1c)学習アルゴリズム; ディープラーニングは、データからパターンを学習するために、バックプロパゲーションなどの学習アルゴリズムを使用します。これにより、モデルの性能が向上します。
(2)ディープラーニングの応用例
(2a)画像認識: ディープラーニングは、画像内のオブジェクトを認識する能力に優れています。例えば、顔認識や物体検出などが挙げられます。
(2b)音声認識: スマートフォンの音声アシスタントや音声入力システムは、ディープラーニングを利用して高い精度で音声を認識します。
(2c)自然言語処理: ディープラーニングは、テキストの理解や生成にも使用されます。翻訳、要約、感情分析などが代表的な応用例です。
(3)メリットと課題
(3a)メリット: 高い精度、膨大なデータからの特徴抽出、自動化されたプロセスなどが挙げられます。
(3b)課題: ディープラーニングは大量のデータと計算リソースを必要とします。また、結果の解釈が難しいこともあります。


1.03 オイディプスコンプレックス
男性脳を有するホモサピエンスは戦争を“男のスポーツ”と考えていた、と前章で述べましたが、この男性脳と戦争の関係でどうしても避けては通れない、文化人類学のはじめの講義内容であるオイディプスコンプレックスで、その概略を述べたいと思います。ほとんどの大学の必須教養科目なので、かなりの人が知識を持っているとは思いますが、あえて述べさせてもらいます。フロイトはどの未開人集団でも“近親相姦”の不文律のダブー(*)を持つことを発見し、アインシュタインとの手紙で述べられるように、男性脳を持つものがいる限り戦争はなくならないと結論しております。
男の子は生まれながらに戦いが好きなのでしょうか?実はその通りで生まれて3年くらいで、はっきり女の子と異なる行動をとり始めます。見るテレビ番組なども、仲間と一緒に地球を守る為に戦うような、戦争アニメを好んで見るようになり、遊びもチャンバラや野戦ごっこのようなものになる傾向があります。したがって記憶や知性を育む第3脳の発育が良くない状態で、性欲が急に増大する時期が重なると、当然“強姦魔の殺し屋”になります。またどの様な宗教や母性愛・父性愛のもと育っても、潜在的にオイディプスコンプレックスを持っているわけですから、攻撃的性質は変わりません。したがって、戦争や虐殺のない平和な社会を創造するには、男性脳の女性脳化が必須で、母親の責任が重大であると同時に、それは社会的責任でもあるのです。
(1.03a) オイディプスコンプレックスの要旨は
普通の一般的な男の幼児が、家庭内の宗教や教育を一切受けることがなく成長すると、その男の子は、やがて“強姦魔の殺し屋”になることを意味しています。
(1.03b) オイディプスコンプレックスの教科書的説明
オイディプスコンプレックスとは、フロイトの精神分析理論に基づく概念で、幼児期の男児が母親に対して持つ性的な愛情や執着、そして父親への競争的感情を指します。この名前は、ギリシャ神話のオイディプス王に由来します。オイディプス王は、自分の父親を殺し、母親と結婚するという運命をたどった人物です。
フロイトによれば、このコンプレックスは子供が発達する過程で自然に経験するものであり、適切に解決されることで健康な精神発達が促進されるとされています。しかし、解決されない場合、成人期にさまざまな心理的問題を引き起こす可能性があるとされています。
(1.03c) オイディプスコンプレックスの主な要素
a. 性的愛情: 母親に対する強い愛情や執着。
b. 競争的感情: 父親に対する競争心や敵意。
c. 去勢不安: 父親からの報復を恐れる感情。
この理論は、心理学の中でも議論の多いテーマであり、現代の心理学者の間では異なる意見も存在します。しかし、フロイトの影響力は依然として大きく、多くの人が彼の理論を研究しています。
(*)タブー
タブーとは、特定の社会や文化において禁止されている行動、言葉、対象などを指します。これらは社会的または宗教的な理由で避けるべきものとされ、破ることは強い非難や罰則を伴うことがあります。タブーは時代や文化によって異なるため、他の文化では普通である行動が、別の文化ではタブーとされることがあります。
a. タブーの例
a1宗教的タブー: ある宗教では特定の食べ物や行動が禁止されていることがあります。例えば、イスラム教では豚肉を食べることが禁じられています。
a2 社会的タブー: 社会的な規範に基づくタブーもあります。例えば、礼儀やマナーに反する行動は多くの社会でタブーとされています。
a3 文化的タブー: 文化ごとに異なるタブーが存在します。例えば、日本では箸を食べ物の中に垂直に立てることは、葬儀を連想させるためタブーとされています。
タブーはその社会や文化の価値観や信念を反映しており、それを尊重することは他者と良好な関係を築く上で重要です。


1.04 男性脳がある限り戦争はなくならない
“誰がやりたくて戦争を始めるものか”とよく言われますが、男性脳というものは、常に“皆一丸となって戦おう”の路線に、仲間たちを持っていこうとします。子供のテレビ番組でも“地球を守るため一致団結して戦おう~”“ウオ~”とアニメではよくやっています。これをアニメのことだと思ってはダメです。現実に “クリミア半島のわが国の親ロシア人はウクライナ政府による弾圧に苦しんでいる”“救ってやろう!”のスローガンの下、ロシアはウクライナを完全に叩きのめしクリミア半島を自国領にしました。その後、ウクライナに今攻め込めば、1週間でウクライナ政府は崩壊しウクライナは自国領になると断言したロシア軍高官の進言に従い、またロシアはウクライナに侵攻しました。しかし、さすが今度ばかりはウクライナも黙っていられず抵抗し、今の状況に至っております。
ここで問題は、何故領土が手に入るとの話に“ウフフ”とのってしまうのか?私が住んでいる横浜市と同じような面積の所に人口が一人以下のところが数多く存在している広大な領土を有する国が、何故これ以上に領土拡大したがるのか、この答えが男性脳だと思います。
男性脳は自分の子供が危機に面していると反応します。自分の妻の危機にも、家族にも反応します。そして国家の危機にも反応しますが、問題は反応レベルが、自分の子供たちの危機と国家危機が同レベルの危機感を有することです。妻>両親>地域の順で危機レベルが下がりますが、国家となった途端に危機レベルが飛び跳ねます。ただ後の章で詳細は述べますが、儒教が支配する地域、ベトナム、南中国(広州・福建・中山あたり)から朝鮮半島の地域の人は、“親の命令は絶対”“子供は売り物”の宗教律により国家という概念形成自体に問題があり、親に対し命令する個人を“国家”とする個人崇拝が儒教なのです。当然“親”と“崇拝者”の結びつきが弱い国家観ため、危機が発生した場合、親・子供と一緒に逃げるのが普通です。
AIによりますと、“権力を持った男性が戦争を起こす理由は複雑で、多くの要因が絡み合っています”とありますが、実は単純で“正義感に燃えた一人の青年が、困っている人を助けるため、一人で敵に立ち向かえば”戦争は起きます。戦争は一人でも起こせるのです。男性脳は常に戦いを望んでいるのです。
自分の卑近な例で大変申し訳ないのですが、私の兄は“自称天才を見分けられる、天才”だそうです。そして兄の見立てでは、私は天才で、その意味で家族全員を支える絶対義務があるそうです。そのため小さい頃から私は、一切のエラーが許されず、野球でエラーしたと言ってはビンタ、テストで100点取れなかったと言ってはビンタをされて来ました。“一家を支えるものが、何だこれは!”と怒鳴られてビンタされるのです。そしてビンタされた後、“有難うございました”と必ず言わなければならないのです。ちょうどアントニオ猪木のビンタと全く同じです。アントニオ猪木のビンタ行列で示されることは、これは今も、世界中に広がっている習慣だと言いうことです。上下関係が重要な軍隊や、女性の地位がとても低いグループでは父や兄が下の者にビンタすることは良くあることです。ビンタをする方は、自分は愛情があるからやるのであって、ビンタされる当人たちも感謝しているとなるのです。究極の愛情表現がビンタなのです。愛していないものに対してビンタなんかできない、となるのです。
この傾向は男性脳を有する人間に至極一般的にあり、戦争を起こす権力者たちにも、まったく正義に反することはなく、愛情があるが故の戦争行動となるのです。
問題は、正義の人が、溢れる愛情のゆえに、起こした戦争を、どうやって止めるかということです。戦争は一人で始められますが、停戦はとんでもなく多数の人を巻き込んでやらなくてはならないからです。それが、このブログが目指す“ノルウェーが女性脳で戦争を管理する”ことの核心です。言葉は変ですが“停戦は、女性脳を持ちかつ、優しい顔を持った、徹底した悪人”でしかできないことなのです。
話が少し脱線しますが、最近熟年離婚が多くなったそうです。亭主が給料を持ってくる以外価値がないと判断されたら、定年と同時に女房の方から亭主を捨てるのです。女性の判断はいつも大体正しいのです。


1.05女性脳がある限りトラブルはなくならない
ここで女性脳と述べましたが、男性脳が前章に出たのでそれに対応して女性脳と述べたもので、女性脳は一般的な男性脳を含めた人間脳を意味します。この人間脳を有するホモサピエンスは生まれながらに体内に生物学的プログラムをインストールされて産まれてきます。
この人間の生物学的プログラムがほぼ確実にアクチベート(動作)してきたのが、疲労(活動に伴い疲れる)と老化(時間とともに細胞劣化)が起きやがて死を迎えることです。環境が変化しなければ永久に生き続ける生物が存在しますが、環境は常に変化してきているのでそれら、不死生物も環境変化で死を迎えることになります。代表的な不死生物が“人間自ら生み出す癌細胞”です。癌細胞は本体が死ぬ前に取り出し培養すれば“自然死を迎えることがない”生物です(現在本体死後40年生き続ける癌細胞が英国の研究所で培養保管されています)。ただこの癌細胞はすこぶる大食漢で通常の細胞の6倍から10倍もの糖を食べなければ生き続けられないのです。かつ、弱らせる薬剤を投与すると疲労を起こすことが分かっております。面白いことに男性ホルモンを分泌させる精巣から作り出される精子も不死生物の一つです。精子を作り出す増殖細胞は疲労・老化を起こす正常細胞なので歳と共に劣化するのですが、作り出される精子は男性がいくつであってもヤング精子なのです。細胞分裂する時の、DNAの端部のテラメアという端部不動作DNAの長さが影響するという報告がありますが、現在、未解決の問題でもあります。
この“人間はいつか死ぬ(100年程度)”という生物学的プログラムは、どのような暴君や独裁者が出現しても100年以上続かないという人類にとってメリットを生み出すと同時に、死を迎える生物は環境変化に強いことが分かります。不死生物は、たった一つの原因で全体が一挙に死滅する確率が非常に高い(DNAが分散されず、一つの同一集団になりやすい)反面、必ずいつか死ぬ生物は、多様な子孫を残しどのような環境変化が起きても、誰かが生き残る確率を高めているのです。ただこの反面、リチャード・ドーキンスの“利己的な遺伝子”で述べられているように“イジメ”や“嫉妬”を、人間脳を有するホモサピエンスから、消去することはどうもできないようなのです。
この“イジメ”や“嫉妬”はグループ内の連帯を強めますが、一方他のグループ間との摩擦を発生させます。そのため、人間という生物体では、トラブルはなくならないのです。“イジメ”は人間の生物学的プログラムに組み込まれたものであるから、“イジメ”をなくすことは人類が消滅しない限り不可能なのです。生物学的プログラムですから問題は、人間としてごく普通の行動で、“イジメ”ている人間は、“イジメ”ていると思っていないことにあります。グループ内の団結を維持し、楽しくするために一生懸命働いていただけだ、と“イジメ”ていた人間は普通に言うのです。川崎で“イジメ”で自殺した中学生がおりました。“イジメ”たとされる生徒は、取り調べ時に“あいつをイジメたことなど金輪際ない。あいつは俺の小便を飲んだりしてはしゃいでいた、喜んでいたぜ”と証言したのだそうです。
共同活動が始まると、どのグループでも生物学的プログラムの“イジメ”が動作し始めます。多分”イジメ“は、人類が生き延びるための、必須のプログラムであるような気がします。私は、「数学の愉しみ」という雑誌を10年来読み続けましたが、そのカラムの連載に「働かないアリ」の話がありました。働き者のアリでも集団の中では、80%は良く働くが、20%は全く働かず、時には働きアリを邪魔したりするのだそうです。そこで、まったく働かない20%のアリだけを採取して巣を作らせると80%が働きだし、20%はやはり怠け者になる、というものでした。当時はどのような社会も20%位の怠け者がいるのはやむを得ないのではないか、というのが結論でした。10年後のレポートでは、働かないその20%のアリは、外敵が現れると自らを外敵の口の中に入り込み食らいつき死んでも次から次へ突入し、外敵が巣に侵入するのを防ぐらしいのです。また、新しい巣ができる時には、自らを生んでくれた女王アリを殺害し、新女王アリの誕生に活動するらしいのです。つまり、働かないアリにもある意味がある、というものでした。したがって人類にとって害にしかならない、と思われる生物学的プログラムの“イジメ”にもある意味があるのかも知れません。“イジメ”を無くすなどは、生物学的プログラムを変えない限り不可能な事だと思います。
しかし学童や一般社会人が“イジメ”から逃れるのは簡単です。そのグループから離れることです。ただ学童の場合は保護者が、一般社会人の場合は家族や配偶者が問題となります。皆と一緒に遊べない子は、社会にでたら潰されてしまうのでは、とか義務教育だから通学しない訳にはいかない、などという保護者の勝手な思い込みが、学童を追い詰めます。また社会人の場合は、“勝手なことを言わないでヨ!私たちどうやって生きて行けというの!”という言葉で配偶者がこれまた追い詰めます。考えてみたらグループを離れることは、たいした事ではないのです。
この人間脳がなす“イジメ”は、男性脳では少し異なる作用を当然します。男性脳が社会的に成長する以前の第3脳が未発達の状態では、やはり“イジメ”はスポーツの一種なのです。人間脳が“敵が阻害されて泣いている”、ことが分かると、それは自分のグループの安泰を意味するため、満足感を得ることが出来ます。それに対し、未熟な男性脳では“敵が死なないと満足しない”という厄介な状態の期間があり、戦争がスポーツであった頃を思い出すように、大人になっても潜在意識の中に殺人願望が残ります。したがって、“イジメ”た相手が自殺すると、“成功した”と思うのです。ただそれを見ている他の男性脳は、自殺に追い込んだ男性脳側が、自殺された側の復讐でまた殺されることを期待して楽しむようになるのです。戦争はスポーツだ、殺し合いは喜びだと男性脳の第2脳が活躍する期間は、両親の生活意識により長短がありますが、学校教育とはほとんど関連しないと言われております。
私自身の問題で、大変申し訳ないのですが、小学校、中学校は大変な“イジメ”を受けました。時代なのかもしれませんが、日教組が教員の中で絶対的な政治的力を持っていた時期です。赤旗を振り回しクラス生徒を中庭に集めたことがありました。私の母は当時、大変珍しい理系高学歴であり、はっきり物事を言う性格であったため、地域のリーダー的存在でした。母は先生が公然と授業中赤旗を振って革命を叫ぶなんてもってのほかと考えていたので、校長や教育委員会(当時は権限がほとんどなかった)に強く抗議したものです。そのたびに“奥さんは頭が良すぎるのでトラブルを起こすのですよ!もっとバカになりなさい”と必ず言われたそうです。そのような母が詰問した、赤旗を振っていた教師が、私を中庭の中央前に立たせ、生徒全員に潰れたチョークを私に投げさたのです。そのころはシュプレヒコールなどという言葉は無かったですが、“安保反対!岸殺せ!”が日教組の合言葉でした。私の名前が岸本なので“岸本殺せ!”がぴったりの合言葉でした。体中真っ白になりました。ただ、当時“イジメっ子”といわれる10数人(数十年後思わぬところで再会)は、先生の命令をよろこんで、思いっきりチョークを投げてきました。しかし、他の生徒は体にも当たらないようそっと投げてきました。ほとんどの生徒は落ちたチョークを拾う役をやりました。この事は母にはしゃべりませんでした。懸命に働く母を悲しませると思ったからです。この時代、弱い者やお金のないものを“イジメ”るのは、ある種のスポーツのようなもので、家庭に問題を抱えている家の子や、成績が全く振るわない子などは、幸せそうな子や、頭のいい子に対し“イジメ”て気を晴らしていたものです。ただ“イジメ”られて自殺するなどは一軒もありませんでした。テレビなども、体が小さく“イジメ”られながら成長した嘉納治五郎が、“ナニクソ”と歯を食いしばり技を生み出し、大男を投げ倒すというような番組や、角界を追い出された力道山がプロレスで大男の“シャーク兄弟”を空手チョップでダウンさせるなど、その当時の日本の状況を反映して“我慢して、我慢して、いつか”の精神が普及していた時代でもありました。まだ“忍び難きを忍び、耐え難きを耐え”の余韻があったのと、日本国中に“明日は今日よりキットよくなる”という確信があった時代だったことも影響していると思います。私も貸本屋で、昼食代を2日分貯めては一冊借りる生活をしていました。それも慣れてくると、一冊本を借りる前に他の2冊分を読んでしまい、それから一冊借りるようになっていました。やがて貸本屋から“出入り禁止”になってしまいました。何度も“ナニクソ”と心の中でつぶやきました。当時将来は、貸本屋になり好きな本を思う存分読むのが夢でした。この“ナニクソ”、言葉は汚いように思いますが、心がくじけそうになる時など、大変役立つ言葉だと思います。“ガンバレ”などという言葉は、人を馬鹿にしているとしか思えません。皆“ガンバって”いるのです。“ナニクソ”です。
最近、自分の理解を超えた過労死なる言葉が出てきました。過剰な労働時間が体と心に大きな負担をかけたり、職場でのプレッシャーだったり、精神的負荷に耐え切れず、自らの命を絶ってしまうことだそうです。何故その様なグループから離れる事をしないのでしょうか?話が少しずれるように思われるかもしれませんが、日本が戦後奇跡の復興を遂げたと世界ではよく言われます。それは奇跡でもなく、ただ懸命に働いた結果にすぎません。戦争の結果、ローレベル層がかなり消滅し、レベルが上がった状態で戦後を迎え、その残された“生き残ってしまった、死者に申し訳ないと思う能力・スキルが高い世代が”、復興のため懸命に働いた結果、日本の戦後復興が早かっただけなのです。もちろん一番コストがかかる軍事費を米国にすべて加担させ、偶然にも日本の近辺で、日本が得意とする工業製品を大量消費してもらう、朝鮮動乱などに助けられたのは事実です。したがって、残業は明日への夢と収入をもたらすもので、ある種のあこがれの様なものでした。最近の“昭和ブーム”でよく、銭湯の湯上りに“ワタナベのジュースの素を、脱脂粉乳に混ぜただけのような、フルーツ牛乳”を皆飲んでいる風景のシーンが出ますが、あれは“残業して何とか納期に間に合わせた”と大残業した労働者が、自分への“ご褒美”として飲むものでした。飲む人を、皆うらやんで眺めていたものです。月給の20回分割支給が、何度か続く時代でも、仕事が“キツクテ”命を絶つなど、ありえません。命を自ら断つなど、もったいな過ぎます。
ただその中で、戦前より続く“国体護持”(天皇を中心とした皆仲良し家族の国家体制)の継続を強調する人たちは、制度改革の下、自らの命を簡単に絶っておりました。その国体護持精神が現在の過労死だと思うのです。家族は会社と一体でも、仲良しでもありません。疲れたら“会社を辞めろ”、家族護持。何が自分に幸せで、家族に幸せなのか、もう一度考えませんか。
私は、中学校へは俗にいう“越境入学で”、指定の中学へは行きませんでした。母の配慮でした。しかし、やはり“イジメ”がまた始まり、学校に行っても川岸で本を読むような不登校生徒でした。しかし、数学、物理、化学、技術は何故か面白く“そっと授業に入り込んで”聞いていました。当時は試験の成績さえよければ、出席の有無を問題視はされてなかったのです。中学3年の夏に状況が一変しました。有名高校に何人入学できるかで、中学校のレベル評価が変わる時代になったのです。私は“過去問”を集中的に課外授業で受けることになり、中学校の目論見通り、進学校へ進むことができました。
高校は進学校でしたので、生徒の目標が大学にあるため一切の“イジメ”はありませんでした。私は、大学紛争などで東大入試がなくなるなど、大混乱に遭遇しましたが、一応の一流大学に入ることができました。驚くことは語学別のクラス分けが実施され、50名程度の受講生に話を聞き始めた時です。その多くが“小学校”“中学校”で不登校児だったこということです。また多くが“イジメ”にあっていたという事実です。逆に“イジメ”に会うような子供でないと一流大学には入れないのかもしれません。私に娘が授かり、予想したように、娘も“イジメ”にあう事態となりました。私は“学校など行かなくてもいい。大丈夫だ”と妻に笑って言ったのですが、妻は怒った上に校長や“イジメ”た子供の両親に対して“イジメ”の再発防止を訴える始末でした。“イジメ”の問題点解決を阻害している原因は保護者に在るのかも知れません。
学校で子供が“イジメ”にあったとなると、担当の先生に物凄い勢いで怒鳴り込む保護者がよくあります。共通しているのは、子供は正しく、誠意ある行動をしているのに、“イジメ”る“奴”がおり、先生は何の指導もしていない、という一方的な発言です。だいたいそのような保護者は問題があり、当然その子供にも問題があります。先生が“お宅のお子さんは少し問題がありまして~”などと話し始めた途端、怒鳴り声をあげる保護者もおります。“イジメ”があったと聞いたら、先ず“うちの子供がご迷惑をお掛けしたようですが、どのような状況か、お聞かせください”と先生から説明させるようにし、先生の言うことをよく聞いて、状況をしっかりと把握することです。先生と相談の上、ほとんどが、グループから離れる、学校に行かないなどの処置をすれば問題は一挙に緩和します。
学童や社会人の“イジメ“はグループを離れることで解決できますが、”イジメ“の一番深刻な場合は、”嫁“”姑“の家庭内”イジメ“です。同じグループ内の”イジメ“で、いわば生存競争なのです。グループから離れるということも現実的に大変難しくなります。当然”男性“vs”女性”、や“男性”vs”男性“の場合もありますが、圧倒的に”嫁“vs”姑“の場合の”イジメ“が多く、これは人間脳いうよりは”女性脳“と言った方が良いのです。”ドーキンスの利己的な遺伝子“で詳しく述べられていますので、再度読み直して下さい。
ただ日本の場合、人間脳であるべき“女性脳”が、女性であるがゆえに、タリバン型制度に押し込まれて、かつ押し込まれた状態を優遇する制度が、法律・税体系・規則・賃金などに張り巡らされているため(女性もその優遇制度を享受している)、自由な行動も、発想もできないという“女性脳”であることが問題です。そのため、”嫁“vs”姑“問題が非常に深刻なものになっていることは後の章で述べることとします。